大内延介先生ご逝去

 将棋の引退棋士で、第1期棋王となるなど、活躍した大内延介(おおうち・のぶゆき)九段が6月23日、ご逝去されました。75歳でした。お別れの会は7月17日午後5時から東京都渋谷区千駄ケ谷2の39の9、将棋会館で行われます。1954年、土居市太郎名誉名人門下で奨励会に入り、1963年、プロ四段に昇段した大内九段。豪快な振り飛車戦法を得意とし、特に中飛車で果敢に攻撃する棋風は人気を集め頭角を現しました。「怒濤(どとう)流」の棋風で知られ、「江戸っ子」らしいきっぷのよさでファンも多かったようです。1975年、第34期名人戦で中原 誠16世名人に挑戦しましたが、3勝3敗から最終局は持将棋(引き分け)に持ち込まれ、指し直し局で敗れて名人位にあと一歩及びませんでした。1976年、第1期棋王となり、初タイトルを獲得しました。1993年から1999年まで日本将棋連盟の専務理事を務め、旭日双光章を受章しておられます。

 大内先生と言えば、中飛車「穴熊戦法」を得意としており、加藤一二三先生と並んで大好きな棋士でした。私も若い頃はずいぶん先生の穴熊の本を読んだものです。大内先生、33歳の時に、当時の中原 誠名人に挑戦した昭和50年の七番勝負は、歴史に残る大接戦でした。3勝3敗で迎えた最終局は、大内先生が圧倒的に有利な局面となり、ご本人はもう勝った気分で、記者会見で着る服まで決めていたと言います。ところがとんでもない大ポカ、大悪手が出てしまいます。「その瞬間、私は背中に数貫目の氷柱を背負った心地がした」と述懐しておられます。結局この将棋は持将棋(引き分け)となってしまい、改めて指し直しの第8局は中原名人が制し、大内先生は「幻の名人」となってしまいました。晩年は「将棋とは一体何だろう?」というルーツを探る旅に、インド・中国・アジア諸国を巡りました。取った駒を再利用する日本将棋の独特のルールは、戦争で敵を皆殺しにしない日本の民族性と関係がある、というのが大内先生の独特の見解でした。

 史上最年少の中学生棋士藤井聡太くん(14歳)が、かつてない国民的将棋フィーバーを巻き起こしていますが、その中で大好きな加藤一二三(かとうひふみ)先生が「藤井特需」で大人気です。⇒私の加藤先生への思いはコチラです  連日テレビ出演を掛け持ちして、年内に16冊もの本が出版されると言います(加藤先生の文章は面白いんです)。そんな喧騒の中で、ひっそりと静かに大棋士が旅立ちました。ご冥福をお祈りします。

▲総文祭島根県予選での北高生の対局

 

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