「松本清張記念館」に行ってきた!

 松本清張さんの死没を受けて、生前の功績を称え、後世に語り継ぐことを目的として、清張の郷里である小倉北区に「北九州市立松本清張記念館」が、小倉城址域の南西端の一角に、1998年8月4日に建立されました。今日の訪問は、津和野高校時代以来二回目になります。小倉駅から西鉄バスで約10分、「小倉城・松本清張記念館前」100円)のバス停で降りてすぐの所にあります。ここをちょっと歩けばもう小倉城です。私はこの記念館と小倉城小倉城庭園の三施設共通入場券(700円、別々に買えば1150円ですからずいぶんお得!)を求めてお邪魔しました。日常の喧騒の中にあって、静寂で穏やかな低層の日本瓦葺きの大屋根が連なり、平明かつ端正な容姿と力量溢れる大空間を、素材の持つディテールが生み出す対比によって、清張さんの『理』と『気』を来館者の心に与えたいと願った建築だそうです。この壮大な屋根瓦のカーブと丸みがとても印象的でした。同記念館の公式ウェブサイトはコチラです。

 

 館内では、地下1階から2階まで清張さんの業績に関するありとあらゆる資料が、映像(オリジナルドキュメンタリー)や展示物などで紹介されています。中でも驚かされるのが、東京にある松本邸の一部をそのまま館内に再現してしまったというコーナー。それも2階まで忠実に。東京都杉並区高井戸の自宅の外観をはじめ、遺族から寄贈を受けて、書斎や書庫・応接間を清張が亡くなった当時の状態で忠実に再現し、宅内の家具や書物、インテリアなどの小物に至るまで、すべて生前松本さんが使っておられた実物が、皆ありし日のままの状態で置かれていました。「この本はこの場所にこういう角度でこう開いて置かれていた」といった事細かな点にまで配慮された展示なんです。これにはさすがに呆然とするしかなく、館内の至る所に松本清張さんへの愛が感じ取れる施設でした。

 松本清張といえば小倉北区出身で芥川賞も受賞した日本の文壇を代表する作家。私は普段テレビドラマくらいでしか清張さんの作品に触れることはないのですが(あまり好きにはなれないでいます)、異例の42歳から作家として活動され、亡くなる82歳までの四十余年もの間、あらゆるジャンルを越えて多様な作品を生み出し続けた日本文学を代表する作家です。その作品数は長篇・短篇他あわせて千篇にも及ぶといいますからすごいですね。その松本さんの生い立ちから晩年までの全てを疑似体験できる施設が、ここ「松本清張記念館」です。館内には松本さんに縁のある品々をはじめ、生後から没年までの歴史を示した巨大な年表などが展示され、様々な角度から彼の人生を垣間見ることができます。

 ここで今日の耳寄りな情報を。これが私が清張作品をあまり好きになれない理由でもあるんですが…。私の大好きな西村京太郎先生と松本清張さんの間には、チョットしたいざこざがあったみたいです。『人生は愛と友情と、そして裏切りとでできている 西村京太郎 ザ・インタビューズ』(サンポスト、2015年)で詳しく、重田 玲さんがインタビューしています。私はこれを知って、「松本清張」の人柄に、疑問符をつけずにはいられませんでした。文壇の権力をかさにきた横暴ではないかと。

「楽観主義というだけでしょうか?でも、それがなにかを長く続けるコツかもしれないですね。人間って、人を憎んだりしたくなるじゃないですか。仕事をしていてもそう。人間が関わる限り、憎んだり恨んだりという感情は生まれるように思います。でもそれにとらわれすぎると、なにか物事を長く続けていくことって、難しいのかもしれないなと思いました。許す心も必要、というか」
「でも、恨んだこともありますよ」
「え、どんな出来事でしょうか?」
「一度だけ。松本清張さんに邪魔されてね」
「松本清張さんといいうことは、あの山村さんが受賞を逃した話も含めてでしょうか?」
「いや、あれは清張さんと山村さんとの話なんだけどね。要するに清張さんは山村さんに好意を持っていたと思うんです。そこに僕が入ってきちゃったから、嫉妬があったんじゃないかと思います。山村さんには『あんな若造で将来性がないヤツとは付き合うな』とか、いっていたらしくて」
「なるほど」
「そのころ清張さんは文壇ですごく力があったんです。それで、僕が新しい本を書いても出なかったことがあるんです」
「本が出ない?」
「光文社の本だったんですけど、突然編集部から連絡がきて、『これから清張さんの家に行って謝ってきてください』というわけです。
「それはなぜですか?」
「僕もそう思って、『どうしてすか?』と尋ねたんですね。でも、編集部からは『とにかく行ってくれればいいんです。清張さんに申し訳なかった、すみませんでしたと謝ってください』って」
「いきなりそんな…」
「でも、『謝らないとあなたの本が出ない』といわれて」
「え?話の脈絡がまったくわかりませんが…」
「でしょうね(笑)。僕もよくわかりませんでした。当時、清張さんは杉並区の浜田山のあたりに住んでいたのですが、結局、僕はそこまで謝罪に行きました」
「そもそも謝る理由ってなんだったんですか?」
「松本清張さんが、あいつの本を出すなって」
「え、西村先生の本をですか?」
「おそらく、山村さんのことで気に入らなかったんだと思います。清張さんが京都に行くときには、山村さんに着物を着てくるようにいっていて、着物姿の山村さんに京都を案内させていたらしいんですね。そこに僕が入っていったものだから…。それで編集部が僕に向かって、とにかく『すみません』と謝れば本が出せるからと」
「ちょっと理不尽な話の流れのような気がしますが…」
「出版社からすれば『本は出したいんだけど、清張さんが出すなといっているから、申し訳ないけど意味はわからなくても謝ってください。そうしたら本は出せるので、とにかく謝ってください』というので」
「清張さんはまさに文壇における権力者だったんですね」
「しょうがないからメロン買って謝りに行ったんですけど、会ってくれないんですよ。追い返されちゃってね」
「それは…。で、結局その作品はどうされたんですか?」
「出ましたよ。そのとき山村さんに、今松本清張さんとこんなことになってる、というような話をしたんです。そしたら『私がいってあげる』って。そうして出たんです」
「その本のタイトルはなんですか?」
「ヨットの話で、『赤い帆船』です。あとがきに、『この本は、松本清張さんのご厚意により…』という一文が入っているんですよ。清張さんが、こう書けば出してもいいとおっしゃったらしくて…。別に、厚意もなんにもないんですが…(笑)。要は、清張さんが昔ヨットを題材にした、ちょっと似たような本を出していらっしゃった。だから、あとがきにそう書けば出してもいいといったみたいです」

   

  このどろどろとした事件の全貌は、西村先生がミステリーの女王・山村美紗さんの姿を描いて捧げた自伝的小説『女流作家』(朝日新聞社、2000年)に、当時の様子が生々しく書き込まれていますので、ご興味のある方はお読み下さい。152頁から168頁がその顛末です。西村先生は矢木、山村さんは夏子、松本清張さんは松木(!)という名前で登場します。メロンを持って謝りに行ったが会ってももらえなかった、編集者からはとにかく謝ってくれと懇願され、途方に暮れる西村先生が詳細に描かれています。仲を取りなしたのは山村さん本人でした。❤❤❤

 

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