アブドラ・ザ・ブッチャー

 アブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah the Butcher)のリングネームで活躍したラリー・シュリーブ(Larry Shreve、本名:Lawrence Paul Shreve)は、父親はインド人、母親はアフリカ系アメリカ人で、9人兄弟の3番目、カナダ・オンタリオ州ウィンザー出身の黒人プロレスラーです。一応、アフリカのスーダン出身というプロレス流儀の経歴になっていますが。貧しい家庭に育ち、人種差別を受ける中、そんな境遇をはね返すべくたくましく育ちました。9歳から新聞配達でお金を稼ぎ、中学卒業後は靴磨きや清掃業で生計を立てながら、12歳から始めた柔道と空手を続けました。頑丈な体と格闘技の実力を活かして、お金を稼ぐために17歳でプロレスラーになりました。当然ハングリー精神は人一倍で、前座で試合をしながら、ザ・シークなどのトップ選手の試合を見ながら、彼は一つの答えに行き着きます。「ファンの求めるのはバイオレンス。世間の常識など存在しないリングで、本物のバイオレンスを見せつける」と心に決め、空手を生かしたラフ殺法でたちまち人気ヒールとなり、デビュー3年目でリングネームを「ザ・ブッチャー」に改名するのです。日本でのニックネームは「黒い呪術師。入場テーマ曲はピンク・フロイドの「吹けよ風、呼べよ嵐」です。プロレス界を代表する悪役レスラーの一人で、来日回数は140回を超えており(1970年初来日)、歴代外国人レスラー最多です。日本のリングに登場した悪役レスラーは数えきれませんが、その中でも突出した人気を誇っていたのが、ブッチャーでした。現在では、膝が悪くて歩くのもままならず、車いす生活を余儀なくされているそうですよ。

 一目で「悪役(ヒール)」と分かる、額に深く刻まれた無数の傷跡。まん丸い体とギョロリとした大きな目。つま先は鋭く尖った凶器シューズと、ダボダボの空手着パンツを身につけ、パンツやシューズの中には五寸クギやフォークを忍ばせて、巧みにレフリーの死角をついて相手に突き刺します。黒人特有の頭の固さを生かした「頭突き」、白いバンデージでガチガチに固めた指先で相手の喉を突く「地獄突き」、助走をつけて寝転んだ相手ののど元に落とす「毒針エルボー」が必殺技です。一時、相手を担ぎ上げてそのまま後ろにそって落とす「山嵐」を使っていた時期がありましたが、これは長続きしませんでした。馬場さんが、初めてブッチャーのエルボードロップを食らった時の衝撃を「あのとき、ノドにくったエルボードロップのすごさは今でもはっきり覚えているよ」と語っていました。ブッチャーは凶器攻撃や場外乱闘だけの選手ではなく、正統派の戦いもできる実力者なんです。

 初来日の1970年に、日本との橋渡しをしたのが、グレート小鹿ですが、彼は当時のことを「まだ無名でしょっぱかったよ。目だけキョロキョロしてね。可愛い顔してたよ。日本に行きたい、といわれてもウケるかどうか心配だった。確か黒人選手のファイト・マネーで一番下のCランクだったと思うな。それがあんなビッグネームになるんだから、世の中わかんないもんだね」門馬忠雄『全日本プロレス超人伝説』(文春新書、2014年) 黒いつむじ風を思わせるスピード感あふれるファイトぶり。黒光りする肌に、空手着の白い胴衣をつけ、育ての親ザ・シークのツマ先の尖ったアラビア風のシューズをはいた出で立ちは、日本で非常に受けたんです。

 その後、ブッチャーは馬場さんの全日本プロレスを裏切り、1981年新日本プロレスに移籍します。約4年間これといった活躍を見せることもなく、1988年、7年ぶりに全日本プロレスのリングに戻ってきます。裏切られた選手を二度と使うことはなかったジャイアント馬場さんが、あのブッチャーだけは許しています。これは特筆すべきことでした。裏切り者は絶対に許さないというのが馬場さんのスタンスでしたから。全日本プロレス設立時のブッチャーの貢献を忘れていなかったためと思われます。

 ブッチャーといえば、試合中によく両手を膝に当てて前かがみになり、相手を睨みつける姿勢を取ることがありました。実にさまになっていましたね。何か獲物を狙うライオンのような鋭い眼光で、視線を送っていました。実はこれ、体力回復のための一時休憩で、それを客に悟らせないための一流テクニックでした。何せ身長180センチ、体重160キロの巨体ですから、スタミナ面では相当のハンディをしょっていたのでした。よく見せ場では流血もしていましたが、隠し持ったカミソリで自分や相手の額を切っていました。試合中の流血で、ブッチャーからC型肝炎を感染させられて、プロレスラーとしての将来を絶たれた相手レスラーから、損害賠償請求訴訟を起こされて、230万ドルの支払いを命じられたとの法廷闘争のニュースが流れたことがありましたが、いったい結末はどうなったんでしょうね。

 私がブッチャーの試合で忘れられないのは、1977年12月5日、東京蔵前国技館における「世界オープン・タッグ選手権大会」最終戦、互いに優勝のかかったザ・ファンクス対ザ・シーク&アブドラ・ザ・ブッチャー組の公式リーグ戦でした。正攻法では分の悪いブッチャーは、隠し持ったフォークでテリー・ファンクの腕をグサリと刺して激しい出血となります。シークまで凶器攻撃に加わって、テリーの腕をメッタ刺しにします。その都度苦痛にのたうち回るテリー。会場全体には悲鳴がこだまします。ドリーが何度かテリーを救出すべくリングに入るのですが、ジョー樋口レフェリーに制止されてしまい、ドリーはコーナーでタッチロープを掴みながら、必死にテリーを呼んで我慢して待ちます。テリーがブッチャーに左のパンチを放ってようやくドリーに繋ぎ、ドリーの猛攻撃が始まるのでした。その後テリーがリング下で応急手当を受けている間に、ドリーが最凶悪コンビにつかまりますが、応急処置を終えたテリーがリングに戻り、ドリーを救出するあのクライマックスに突入していくのです。いったんリング下に逃れて応急手当を受けたテリーは、右腕に包帯をしてリングにカムバックしますが、ブッチャーとシークが襲いかかります。怒ったテリーはシークの凶器を奪って必死に反撃しますが、手の自由がきかないため、思うように攻撃できず空振りが目立ちます。会場全体がファンクスに声援を送ります。最後は最凶悪コンビの反則負けで、ファンク兄弟が優勝の名誉と賞金1000万円を手にします。ドリーとテリーが抱き合い喜びを分かち合う瞬間がマックスの見せ場でした。右腕を三角巾でつるした弟をかばう兄という美しい「兄弟愛」をまざまざと見せてくれた感動的な試合でした。歴史に残る凄惨な試合でもありました。私はテレビで興奮しながら見たこの試合を、今でも鮮明に覚えています。♣♣♣

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