西村京太郎先生500冊の歴史

▲西村京太郎先生苦労の時代▲

IMG_0128 大好きな推理作家西村京太郎先生の著作が500冊を突破したのは、2012年3月『十津川警部 秩父SL・3月27日の証言』でした。最初の著書は『四つの終止符』ですから、1964年3月のことです。その間48年かかったことになります。単純計算すると、一年で十冊以上のハイペースで刊行されてきたことになります。すごいですよね。しかしここで忘れてはならないことがあります。100冊目の短編集『トンネルに消えた…』が刊行されたのは1985年12月です。なんと最初の100冊に21年もかかっているんですね。先生の苦労時代を振り返ってみます。

 11年間勤めた人事院を辞めたのが29歳のとき。懸賞小説に応募を繰り返す毎日ですが、1つも当選することなく、退職金もなくなってしまいます。数々の職を転々とする中(パン屋の住み込み運転手、私立探偵社、中央競馬会の警備員、生命保険のセールスマン、出版取次の雑役など、アルバイトの中身については『西村京太郎の麗しき日本、愛しき風景』(文芸社、2005年)に詳しく出ています)、4年目に双葉社の短編小説が佳作となり初めて原稿で稼いだお金が5000円でした。続いて、オール読物の推理小説新人賞に当選して、賞金10万円と記念腕時計(この腕時計で質屋からお金を借りておられます)。34歳の時に、天使の傷痕』第40回乱歩賞に当選。さあ、これで「一人前の作家」だと言われますが、受賞第一作『D機関情報』は全く売れません。3000部刷って売れ残ってしまいます。西村さんの小説は内容はいいんだが、何故か売れないんだよ」と、編集者からなぐさめ顔で言われたりもしました。こうしたジリ貧状態が10年間も続きました。年収も500万円未満でした。

 そんな中、光文社のカッパノベルスから書き下ろしを頼まれます。あなたの作品は売れないので、今度は書きたいテーマを持って来てください。こちらで判断しますから。と編集者から釘をさされます。西村先生は2つの案を持っていきました。一つは昭和の初めの浅草を舞台にしたもの、もう一つは当時流行っていたブルートレインを扱ったものです。先生ご自身は浅草を書きたかったのですが、編集者は「それでは売れません」と、ブルートレインを書くことになります。ある日、ふらっと東京駅のホームに行くと、カメラを持った小学生や中学生がたくさんいました。ブルートレインが入線すると、写真を撮りにわーっと集まってくる。列車の先頭にあるヘッドマークを身を乗り出して撮ったりするので、危ないからと柵が設けられたりもしました。中には切符を持っていないのに、発車前のブルートレインに乗り込んで、個室寝台の中を撮ったりする少年もいました。そんなブームを知ってか、西村先生は何かミステリーを書けないかと思ったそうです。東京から鹿児島に向かうブルートレイン「はやぶさ」に取材で乗った先生は、綿密な取材に基づいた『寝台特急殺人事件』を書き上げます。1978年10月のことでした。作者としてはあまり手応えはなかったとのことですが、初めて増刷になりベストセラーになります。西村さん、一万部増刷になりました」  その時とっさに何を言われたのか分からなかったそうです。なにせ十年間一度も増刷になったことなどなかったのですから。「実は、列車を使ったミステリーがどうしても書きたかったというわけではなかったんですね。最初は、この一作で終わるのかと思っていましたし…」 「そう。1冊目が売れたからどんどんシリーズで出すことになって、それが売れ続けていったんです。だから、出版社の人と打ち合わせをしていて、『今度はトラベルミステリーじゃなくてこういうのを書きたいんだよね』と打診してみても、『いやぁ、先生。それは非常におもしろいお話ですね。でもほかの出版社でやってください』といわれちゃうんです(笑)。結局、トラベルミステリーしか書けなくなっちゃいましてね」  こうして『終着駅殺人事件』で、1981年に第34回日本推理作家協会賞を受賞され、鉄道ミステリーが創作の中心となっていくわけです。年収も500万円から、1千万円になり、3千万円になり、8千万円になり、1億5千万円になり、5億円になりました。なぜ突然売れるようになったのかを、西村先生ご自身が分析しておられます。

 なぜ突然売れるようになったのか、考える時がある。第一は、運だと思う。たまたま書いたものが時代にマッチした。これは才能とは関係のない運である。あの時、昭和7年の浅草を書いていたら「いいものを書くが、なぜか売れない作家」でいたろうと思う。第二は、それまで書きたいものを書きたいように書いていたのだが、あまりにも売れないので「読者も面白いように」書いたためだと思っている。それがいいことかどうかはわからないが、売れるようになった原因の一つだとは思っている。  ―郷原   宏(編)『西村京太郎読本』(KSS出版、1998年)

 200冊目1992年11月の短編集『会津若松からの死の便り』で、この間7年300冊目2000年7月の長編『殺意の青函トンネル』で、この間8年です。この間のペースは一年に13冊ほどです。2006年5月に『北への逃亡者』で6年400冊、そしてさらに6年2012年3月『十津川警部 秩父SL・3月27日の証言』で大台の500冊到達です。ずいぶんペースアップしていますね。最新作飛鳥2 SOS』(光文社)で現在575冊600冊ももう間近ですね。❤❤❤

DSC03317(追記) 下の写真は2年前にお会いしたときのものですが、ちょうどこのとき「来週から境港で「飛鳥2」に取材旅行で乗るんだ」とおっしゃっておられました。その成果が、最近『飛鳥2の身代金』(文藝春秋)『飛鳥2 SOS』(光文社)となって矢継ぎ早に公刊されました。特に前者はそのエンディングで度肝を抜かれました。取材の舞台裏については、最新の会報「西村京太郎ファンクラブ」Vol.28に出ていて面白く読みました。

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