ストロング小林

ストロング小林 テレビ朝日で「ワールドプロレスリング クラシック」アントニオ猪木の特集をやっていました。その中で、昭和の巌流島の決闘」と例えられた一戦、国際プロレスのエース、ストロング小林との一騎打ちをやっていました。懐かしくなって、久しぶりに見てみました。当時のプロレス界で「日本人対決」はタブー視されていただけに、2人のエース対決は世間をアッと驚かせたものです。1974年(昭和49年)3月19日、試合会場の東京・蔵前国技館は、1万6500人の大観衆で埋まりました。チケットを持たないファン約3500人が、会場周辺を取り囲んだことでも知られている試合です。

 この試合で猪木さんは「馬場さんとの対戦がなかなか実現しなかったからね。小林は次の大物だった。いい試合をして、プロレスに新たな時代をつくるつもりだったファンの興味は試合の結果に注がれました。しかし、猪木さん本人の興味は、小林戦のはるか先にあったのです。プロレス界では力道山時代から対戦カードは「善玉日本人 対 悪玉外国人」という暗黙のルールがありました。猪木さんはこのマンネリズムを打破して、「日本人エース対決」を新時代への突破口にするつもりだったのです。猪木さんは回想します。「日本プロレスにオレと馬場さんを戦わせる度量があったら人気はもっと広がったはずだった。日本人対外国人という図式ではなくて、感情がぶつかり合うケンカこそファンが見たい試合だったんだ」

 実は、プロレス界で日本人対決がタブー視されてきた原因がありました。1954年(昭和29年)12月22日、東京・蔵前国技館で、力道山と元柔道家の木村政彦が、日本ヘビー級王座を懸けて戦いました。日本を代表する2大格闘家の対決は、社会的にも注目されました。しかし、試合は突然激高した力道山が木村にチョップを乱打してレフェリーストップ勝ち。ケンカのような殺伐とした後味の悪い結果に、プロレス人気は暴落、以来20年間にわたり、日本人トップ対決は封印されてきたのです。

 1974年2月に、ストロング小林はフリー宣言した上で、ジャイアント馬場とアントニオ猪木に内容証明付の挑戦状を送りました。馬場は無視します。しかし、猪木はすぐに会見を開いて受諾したのです。小林と誰もが認める最高の試合をすることで、日本プロレス界を力道山-木村戦の20年に及ぶ呪縛から解き放つつもりだった、と言います。1974年3月1日、都内のホテルで行われた調印式で、猪木は先制攻撃を仕掛けた。激しい舌戦となった会見終了後、2人並んでの写真撮影で、小林の顔面を右拳で殴りつけた。激高して襲い掛かろうとする相手に笑いながら「試合ではその気でかかってこいよ」。前景気は最高に盛り上がった。

 さあ、ゴングが鳴ります。「おーっ!」観客のどよめきが一斉に館内に響き渡り、両者がリング中央で睨み合う。一挙手一投足に観客のどよめきが館内に響き渡り、誰もが一種の興奮状態に陥っています。この様な状況の中で、どちらが優勢か敗勢かなど分かる筈もないが、その中で一人だけ冷静な人間がいた。アントニオ猪木である。小林との力の差が歴然としているからだ。明らかに試合をリードし、支配しているのは猪木であり、小林は懸命に猪木の動きに着いて行こうと精一杯だった。試合は終盤にさしかかり、両者場外で縺れ、猪木はコーナーの鉄柱に額を打ち付けられ、顔面を真っ赤に染め鬼の形相でリングに戻る。それを捕らえた小林はカナディアン・バックブリーカーで締め上げるが、猪木は足でロープを蹴り、その反動で切り替えし、すかさずジーマンスープレックスホールドを決める。完璧なブリッジ、しかも気合いが入り過ぎ、決まった瞬間猪木の両足がバウンドし宙に浮いた程だ。それを象徴するのが、猪木のフィニッシュホールドとなったジャーマン・スープレックスの見事さかなと。

Inokikobayashi1 Inokikobayashi2

 上の2枚が「猪木が頭を先に付けて、ブリッジだけで強引に小林の身体を後ろに持っていったジャーマン」という有名なシーンの写真です。これ、右の写真をよーく見てください。「小林の身体をマットに沈めた後に、猪木の両足がマットから大きく浮いている」のが解るでしょう。これって猪木のブリッジが相当に強固でないとできない芸当だと思います。あの状態でバランスを保つというのは、相当に難しいのではないだろうかと。このワンシーンだけでも、日本プロレス史上でも屈指の名勝負だと云う事が窺えますし、猪木の全盛期の「肉体の説得力」が解ります。ワン、ツー、スリー、見事にカウントが入ります。こうして世紀一戦は猪木勝利で幕を下ろしました。29分30秒。遺恨を残さず、キッチリ決着が着いた事で、名勝負の一つに数えられる事となり、この試合から新日本プロレスはメジャー団体として快進撃を続けて行くことになります。

  しかし小林は何故、いきなりフリー宣言をしたのでしょうか?口数の少ない小林は、この件を余り話そうとしないが、国際プロレス内(特にTBSサイド)でグレート草津をエースにしたい意向が以前からあり、これに対する不満があったらしい。そこに目を付け引き抜きに出たのが新日本プロレスで、挑戦状は馬場が受けない事を予測した上で新日が出させたと言うのが通説になっています。実際、小林はこの一戦に破れると、一旦海外でインターバルをおき猪木と再戦し、それに敗れると新日本に移籍している。仕掛人、猪木・新間ライン、絶好調です。
 試合はファンの予想をはるかに超える名勝負になった。投げ技、パンチの応酬で、一進一退の攻防が続いた。会場もファン同士が殴り合うほど異様な盛り上がりを見せた。20分すぎの場外乱闘で、猪木は額を割った。顔面が血だらけになった。しかし、最後は岩石落としからの原爆固めで小林からフォールを奪った。29分30秒の激闘が終わった。

 テレビ視聴率は20%を超え、翌日のスポーツ紙もほぼ全紙が1面で報じた。それにしても、感情とプライドが先走りして、かみ合いにくいといわれた日本人対決で、なぜ2人はプロレス史に残る名勝負を演じることができたのか。その秘密を今、猪木が明かす。

 猪木「2人が互角ではなく、どちらかの実力がずばぬけていれば、最高のパフォーマンスができる。技をすべて受けて、相手の力を引き出すことができる。オレは小林のすべてが見えていた。見下ろして戦うことができた」。

 30分近い死闘は、実はすべて猪木の支配下にあった。だからこそお互いが力を出し尽くした名勝負になったという。猪木-小林戦で、プロレス界の日本人対決への意識は180度変わった一躍名をあげたのはIWA世界ヘビー級王座を奪ってからで、同王座を73年から25回防衛する日本記録(後に馬場の38回に破られる)を持っていた。文字通り国プロのエースに君臨した。次の言葉は、今のプロレス界へのストロング小林の不満です。

 今のプロレスはね、レーザー光線とかスモークとかさ、そういう演出をしているけれど、あれはマイナスだと思うよ。フリッツ・フォン・エリックなんて試合前にリングをのし歩くだけで、何が起こるんだろう?ってお客さんに期待感を抱かせたじゃない。あれが最高の演出だよ。観客が持っていない鍛え上げた肉体を見せて、お客さんに『やっぱプロレスラーはすげぇや』と思わせる。ね、これがプロレスの本当の姿だ。その原点を忘れないでほしいね。―『プロレススキャンダル事件史』(宝島文庫、2009年)

 

広告
カテゴリー: 日々の日記 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中