巨人時代のジャイアント馬場

馬場正平2 私はアントニオ猪木ではなく、ジャイアント馬場さんが大好きなんですが、彼はプロレスラーになる前は、読売巨人軍のピッチャーだったことはご存知ですか?今日は、野球少年馬場正平(ばばしょうへい)さんを取り上げます。馬場さんは三条実業高校時代は、野球部ではなく、美術部で絵を描いていました(馬場さんの油絵の腕前は相当なものですが、このことはまた日を改めて)。理由はこうです。

 野球部からも、バスケット部からも熱心な勧誘があったが、バスケットのシューズだって私の足に合うものものはなかった。私はつくづく大足を呪ったが、シューズがないから入部できませんとは、シャクでシャクでとても言えたものではない。「僕はもうスポーツはやめて絵に専念したいんです。」などカッコをつけ野球部やバスケット部の練習も、興味のないふりをして見ないようにしていた。私より下手だと思える選手が、普通の足をしているというだけで、張り切ってグランドやコートを飛び回っている。それを見るのは、私には拷問にひとしかった。

馬場正平 しかしここで、一人の先生の厚意が、馬場少年に希望の明かりをともしました。野球部長の先生が、靴屋に特注して、大きな足にピッタリのスパイクを作ってくれたのです。これで野球ができる、馬場正平は夢中で練習し、すぐにエースに抜擢され、練習試合では野球部初の7連勝を記録し、1試合で18奪三振を記録しています。そして秋に、巨人のスカウトから誘いを受け、高校を2年で中退してプロ野球に入ったのです。17歳のことでした。

 「球界最年少の選手」として、1年目こそ目立った活躍はありませんでしたが、翌年にはイースタンで12勝1敗、二軍の最優秀投手に輝いています。3年目は13勝2敗でまたも最優秀投手です。ご褒美でしょうか、シーズン終了間際の中日ドラゴンズ戦に先発して(背番号は59)、あの杉下 茂投手(フォークボールの神様)と投げ合いました。馬場さんは5回までに1点を取られ、代打が出て降板、結局1対0で巨人は杉下投手に完封され、馬場さんは敗戦投手です。勝利投手の杉下さんは、これで通算 200勝を達成しました。杉下投手200勝達成の敗戦投手が巨人軍・馬場正平なんです。これだけの成績を残しながら、生来器用に立ち回れない性格の上に、まだ若いこともあって処世術を知らな過ぎたのでしょう。実力以外の評価で一軍入りできなかったのだとしたら、くさる気持ちが当然あったはずです。

 ほどなくして、馬場さんは急に視力が衰え、病院に行くと「脳腫瘍」と診断されます。19歳の若さで、半ば死の宣告に等しかったといいます。胸の内は相当傷んでいたことでしょう。手術をして奇跡的な早さで回復し、翌春のキャンプにも間に合い、10連勝も記録しますが、二軍暮らしは相変わらずでした。その秋に、大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)にテスト生として移籍します。ある休日の朝、馬場さんは朝風呂に入っていたときに立ちくらみを起こして、ふらついて倒れます。タイルで左ひじの筋を切って痛めます。傷がふさがっても、中指と薬指が手のひらについたまま伸びません。これではグローブをはめることもできません。いかんせん、テスト生の立場では、ここで野球を断念せざるを得なかったわけです。

 今日のブログは、小林信也『人間ジャイアント馬場~リーダーの条件』(インターワーク出版、2005年)馬場元子『ネエネエ馬場さん』(講談社、2000年)の内容を基にして、まとめました。

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